【 MY NOTE 】

MY NOTE:つれづれと綴るもの。


ノックアウトマウス  2019/06/13(木)
Episode 6-3 始めてます / マルセルのこと  2019/04/20(土)
『マッドジャーマンズ ―ドイツ移民物語』  2019/04/07(日)
ミリオンダラー・ベイビー  2019/04/07(日)
Episode 6-2 終了しました  2019/03/30(土)


ノックアウトマウス

ある遺伝子の機能が不明であった場合、それを大元から破壊(ノックアウト)して、
正常の生体との行動や状態を比較し、遺伝子の機能を類推する研究法があります。

マウスは、繁殖のしやすさや塩基配列が人間と99%同じという特性から遺伝子ノックアウト技法の重要な実験動物になってくれています。

では、遺伝子の大元を破壊するにはどうしたらいいのかというと、
全ての細胞の出発点である受精卵を操作して、薬剤を用いて特定の遺伝子を破壊するのです。

そうすると、受精卵が分裂を繰り返し体組織が形成されても、細胞ひとつひとつの核に収まるDNAは、
特定の遺伝子が欠損したままコピーされていることになります。


このあたりのノックアウトマウス作成の技術については、福岡伸一先生の『生物と無生物のあいだ』で門外の人間にも大変分かりやすく解説されています。
興味のある方は是非。



この日記でも以前触れたことがありますが、
福岡伸一先生は、若い頃の研究対象であった謎のタンパク質GP2をめぐって、
ノックアウトマウス実験からその後の文筆活動の柱になる生命観を得たといいます。


GP2とは膵臓内の細胞に存在するタンパク質で、その数の多さから重要なものに違いないけれど、まだその役割がよくわかっていない。

そのためポルシェ3台分の費用を投じてGP2に関連した遺伝子を破壊したノックアウトマウスを誕生させる。


重要なタンパク質が欠損しているのだから、このマウスにも何か異常が起こっているはずだ。

しかし、特に以上は見当たらない。マウスは何事もなく一心に餌を食べている。
確かにGP2関連遺伝子は欠損しているのに。


「何も異常が発生しなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである」
と福岡先生は自身の言葉でまとめられています。


GP2の欠落を、ある時以降、見事に埋め合わせた結果、マウスはそこに平然と生きている。

生命というものは、部品が欠ければ動かなくなってしまう機械のようなものではなく、
何かの欠損が起こっても、他のものが枝を伸ばしそれを補い、生きるためにやわらかく姿を変えて平衡状態を保っているのではないか。


GP2をめぐる研究のため、臨死体験したような気になるほど延々とマウスを解剖し、膵臓をすり潰し、気の滅入るような淡々とした作業の果てに得たこの経験は、
その後の福岡先生の文筆活動の中でも一つの大きなメインテーマとなり、繰り返し美しい言葉で表現されています。


そして福岡先生のこの考えは、生きている上で、平穏無事な人でもいつ病や怪我で欠損に見舞われるかもしれない状況の中、
あるいは既にそういった欠損に苦しんでいる人をも優しく慰めるものでもあるなと常々感じています。

体の中から何かが欠けてしまっても、生命はゆっくりと形を変え、不足を補い、生きていこうとする。


苦しみや喪失感に悲観して死を展望するのはあまりに悲しい。

体は新しい姿に順応するために、ゆっくりと形を変えていっている。

そうしたイメージを自分の中に持っておくことは、ある日突然の不幸と居合わせた際にも
自分を守る優しい籠になってくれるような気がしています。

Date: 2019/06/13(木)


Episode 6-3 始めてます / マルセルのこと

漫画の進行の目標速度がやや遅れ気味なので、Episode 6-3 もちゃっちゃと進めています。


がしかし、ここにきて初めて帯状疱疹になってしまいました。

Episode 6-2 を終了したあたりでとんでもない疲れを感じて、
しばらく制作から離れて映画観たり劇団四季のミュージカルを観劇したりと遊んで楽しんでいたのですが、
妙なストレスや疲れが除き切れなかったのかもしれません。


地獄と評判の帯状疱疹、経験者からそれはそれは恐ろしい、痛くて辛い体験談を多々聞いていましたが、
自分の場合はその前兆に気づいて早めに受診できたので、ごく軽症で済んでいます。


ストレス病とも呼ぶべき帯状疱疹は誰にでも起こり得るものなので
読者の皆さまも、くれぐれもお気をつけください。



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さてEpisode 6 の最終話では、少年期の終わりを迎える主人公の、彼なりの複雑な心の機微を綴っていけたらいいなと思います。


マルセルは意外とプレイボーイで複数のセックスフレンドがいるというのは第一部でもちょっと描いていましたが、
性に対して少し潔癖なところがある主人公はそれが解せないようです。


漫画の中で彼がマルセルに怒ったのは、女の扱いの上手いマルセルへの嫉妬や劣等感よりも、
友達に、自分のしてほしくないことをやっているのを止めさせたいという幼い独占欲から来ているのかもしれません。


友達の行動を、自分の思う通りに制御したいという気持ちは、多少なりとどの人にもあるものだと思うのですがいかがでしょう。


私の子供の頃の記憶を掘り返すと、仲のいい友達が他の子と遊ぶのがちょっと嫌だった。

できればずっと自分と一緒に遊んでほしかった。


大人になってもそういう友達への独占欲は、自分の傍から離れてゆく選択をしてほしくないという気持ちに変わっていったように思います。


友人が転職したり、結婚して引っ越ししたりするのも寂しかった。

素直にその人の選択を喜べない気持ちが浅ましく、自分勝手なものに思えて、
情けないやらみっともないやら、でもやっぱり寂しいのだという、なんとも居心地の悪い気持ちを20代の頃はよく抱えていました。


けれどまあ、30代に入って良かったなと思えることのひとつに、そういう執着から解放されたことが挙げられると思います。

人の行動を、自分の願う通りに制御したいなんて考えること自体が大間違いで、
その人のあるがまま、なすがままを受け入れるしかないという考えが芽生えました。


良い意味で人に期待することをやめた結果、「どうしてこうしてくれないの!?」というイライラから解放されました。

対人関係でイラつきや疎外感を得ているのは、人の行動を制御したいという考えが不快感をおこしていたんだなと実感しています。



しかし主人公はそんなBBAが体得する達観には至らず、友達との関係にイライラする。

この漫画の第二部は、そういう主人公の心の不安定さをベースにしたいと考えています。



初めてできた友達でかつ兄さんのようなマルセルが、自分が嫌だと思う不純なことをやっているのを止めさせたい。

でも自分の裁量でやってるだけだというマルセルの言うこともごもっともなことで、
当事者に問題がないなら口を挟む隙もない。

でもマルセルにはもどかしい思いをする、そういう主人公のややこしい気持ちを描いていきたいです。



Date: 2019/04/20(土)


『マッドジャーマンズ ―ドイツ移民物語』

『マッドジャーマンズ―ドイツ移民物語』
http://www.amazon.co.jp/dp/476340833X/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_YLBQCb524W9C2


欧米でも日本でも、ここ数年で飛躍的にニュースで扱われるようになった言葉"移民"

本作はドイツ国内における移民をテーマにしたドイツ製の漫画です。
(思わずドイツなので"ドイツ製"と言ってしまった)

ドイツの漫画が日本語に翻訳されたの? と、この作品の存在を知ったときまずそう珍しがりました。

ヨーロッパの漫画と言えばフランスやベルギーが多く、ドイツの漫画は殆ど知らなかったのです。

実際ドイツに旅行しても、テレビの児童番組で流れていたり、おもちゃ屋で扱われているのはアメリカや日本のキャラクター商品ばかり。
もちろん私が知らないだけで、ドイツ人が作った漫画作品もたくさんあるだろうけれど、
わざわざ海を越えて日本にやってきて翻訳されたあたり、とても充実した内容なのだろうと期待に湧きました。


実際に読んでみて、実にさわやかな感動を覚えました。


作品は一貫して黒と、金色を思わせるような茶色のインクの2色刷りになっています。

会話をつなぐ坦々としたコマに、ときどき大胆なイラストレーションが挟まれる。
金色のように見えるこのインクの効果がとても気に入りました。


物語は、移民と言っても昨今話題になっているシリア難民からの移民ではありません。

冷戦下、1979年から東西ドイツが統一される1990年までの間にアフリカ・モザンビークから東ドイツに送り出された労働者たちの物語です。

アフリカの歴史に詳しくなくて恥ずかしいのですが、モザンビークは社会主義国だったのですね。

国の実権を握っていた社会主義政党・モザンビーク解放戦線(FRELIMO)は若者たちに教育を与え、
社会主義国家同士で友好を図るという名目で幾多の労働者を東ドイツに送り込むけれど、
実態は教育とは程遠い、単純・重労働の繰り返しであった。
そして支払われた給料は党が大半を天引きしており、彼らは単純に搾取されるためにドイツに送られた構造だったのです。


この手の腐敗は、今も日本にやってくる研修生という名目で悪質なブローカーが跋扈しているあたり、
いつでも、どこの国でも発生してしまうものなのだと思い知らされます。

人が人を労働力として仲介して派遣する構造では、なぜ腐敗が発生しやすいのか興味があるところです。



そして「移動する人々」とはどんな人だろうかと考えを及ばせたとき、探検家の関野 吉晴さんの言葉が思い出されます。

http://www.kobegakkou-blog.com/blog/2016/02/post-1cc8.html

遥か昔からの歴史をたどってゆくと、新天地を求めて移動していたのは、向上心と好奇心の強い勇猛果敢な人々だと空想しがちだけれど、
そういう面もあったかもしれない、でも実態は違うと関野さんは言います。


>移動するのは弱いからではないか。
>(石器時代に)アフリカを出た時も人口圧があって、既得権のある強い人は居残れたけれども、弱い人は突き出されて出たのではないか。

という独自の解釈は、なるほどそうかもね、と納得させられてしまう強い真実味が隠れているように思えました。

普通は、自分が今快適に暮らしている場所から動きたくないものです。
安定した収穫があり、安全な住居があり、身の危険に不安がないなら動きたくないのです。

そういう快適な場所は、力を持つ者たちが占有しており、弱い立場の人々は追い出され、やむなく自分たちの新天地を求めて移動を始めたにすぎない。

歴史上の人類の移動の真相とは、案外こんな風に単純なものだったのでしょう。

(リンクを貼ったフェリシモの講談は大変長いですが、とてもためになるお話なので是非読んでみてください)


そういえばこの日本でも、戦前までは長子相続制度のおかげで食い扶持にあぶれた次男・三男の家族たちが
アメリカ本土やハワイ、南米に移住する例が多々ありました。

移民というのはやはり、元居た土地では暮らしてゆけない立場の弱い人々だったのです。



では『マッドジャーマンズ』の主人公たちは、ただ搾取されるだけの弱い人々であったかと言うとそれは違う。

それぞれに学んだり、友達を作ったり、理不尽に抵抗したり、それぞれの幸福を得るために考えや行動を諦めることはなかった。

3人の主人公たちは「移民」というレッテルの下に、誠に豊かな人間性があって、その人間性をないものと考えてはいけないのです。


昨今「移民」のレッテルは、ただそれだけで無暗な恐れや反発を招くことが多々ありますが、
それは彼らのことがよく分からないからかもしれない。

よく分からないから警戒し、その人間性を顧みず単純労働力としてだけとらえてしまうのかもしれない。

本作は、受け入れ国ドイツの大半の人々にとっては謎でアンタッチャブルだった「移民」の内面を誠実に解き明かしてくれるもので、
本書から学べることは、これから先においてもあらゆる国・人々と共有してゆきたいものです。



最後にバンド・デシネの翻訳家 原正人さんの紹介記事を貼っておきます。

http://magazine.manba.co.jp/2019/04/04/hara-madgermanes/

とても詳しく本書を紹介されているので、是非お読みください。

Date: 2019/04/07(日)


ミリオンダラー・ベイビー

先日、胸糞映画として有名な『ミリオンダラー・ベイビー』をようやく初めて観ました。

映画の様々な場面でさりげなく十字架が登場しており、
神の不条理について描かれた作品だと感じました。


物語の舞台はアメリカ・ミズーリ州、オザークという街。

堀内一史さんの『アメリカと宗教』という新書によると、ミズーリ州はキリスト教徒の中でもプロテスタント系の保守派の多い地域になります。

そしてオザークという街は、これはWikipediaによると、スコットランド・アイルランド系移民の子孫が多く、カトリック系であっても当然保守派。

いずれにせよ、宗教的には厳格な価値観を持った地域であるそうです。


主人公のフランキーは、アイルランド系カトリック教徒で毎朝熱心にミサに通う人でした。

しかし神父には「三位一体って真理なの?」というような軽口を叩き、
神父からは"fuckin' pagan!(クソッタレの異教徒!)"と嫌がられ、二度と来るなと言われてもしつこく教会に通っていた。

熱心にミサに通い聖書を大切にしているのに、何故そんな神に対して小バカにした態度を取るのか。

ここに監督、クリント・イーストウッドの、本作は神の不条理について問いかけるもの、という意思表示を感じました。



我々日本人の生活に根差した考えの中に、因果応報という仏教概念があります。

「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理に立脚して説かれている、仏教の基本的な理念です。

"自業自得"という言葉の方が、より日常に馴染みがあるでしょう。

良い行いをすると、良い結果が返ってくる。逆に悪い行いをするとその報いを受ける。

この考えは、我々の心の中心に近いところで共有され、行動を選択するにも無意識のうちから影響しているものかなと考えます。


この因果応報の概念は、古くから昔話でも伝承されてきて、
思いつく限りでも「こぶとり爺さん」「舌切り雀」「花咲か爺さん」「カチカチ山」…
およそわかりやすく、良い行いをした者には幸を、悪い行いをした者には罰が与えられて終わるという結末を迎えています。


これが日本人にとって創作話の基本形で、良い人は報われなければいけない。

不条理で理不尽な目に遭い、救いがないまま終わる物語は大変苦手なのです。



けれどもこの『ミリオンダラー・ベイビー』は、大変後味の悪いままで終わってしまう。

貧しい家庭の出身で、客の残り物の肉をこっそりもらって自分の食事にするほど薄給のウエイトレスの女マギーが、
賞金のためにボクシングを始める。
故郷の家族のために家を買って、暮らしを楽にさせてあげたい。
そう願って実行しても、家族は清貧というわけではなく非常に野卑で強欲な種類の人間だった。

タイトル戦に挑戦できるほどのボクシングの腕を上げても、不慮の事故で頸椎を損傷し、
わずかに口を動かせるだけの全身不随状態に陥る。

マギーは生きることに絶望し、苦痛から解放されるために舌を噛み切って自殺しようにも失敗。
自殺はキリスト教徒にとって最大の禁忌で、病院のスタッフからはそれを阻止するためにがんじがらめにされてしまう。

自分で打てる手をなくし、マギーはフランキーに尊厳死の幇助を頼むのです。


全く救いようのない結末。

あれだけ健気に働き、トレーニングをし、自分ではなく家族の幸福を願っていた女性が、
なぜこうもひどい目に遭わなければならないのか。

胸糞映画として、未視聴の私でもその情報はうっすら伝わってきていたのは合点がゆきます。
日本人が好む創作話の基本形ではないからです。



しかしキリスト教をはじめ一神教では、この世に起こることのすべては神の意思であり御業だという考えがあります。


あなたがこの世の生を受け、幸せに生きるのも神の意思。
一方で何かの事故に見舞われたり、大病して苦しむのも神の意思であり、あなたはそれを試練として受け止めなければならないという。


日本人的な価値観で言うと、悪い目に遭った人がいたら「今までの行いが悪かったから罰が当たったんだ」という人もいるでしょう。

また自分が良い結果を勝ち取ったら、これまで自分が頑張ってきた成果が出た、と思うでしょう。

自分の行いの結果を自分で受け取るというのは、割とすんなり受け入れられる概念ですが、
自分の行いの自己評価を超越してしまう、とんでもない不条理に見舞われた際には、
因果応報・自業自得の概念で説明を完結させるには頼りない気がします。


例えば凶悪な犯罪に見舞われ誰かが命を落としても、犯人は捕まることなく平然と生きている。

よしんば犯人が逮捕されて裁判にかけられても、量刑が被害者たちの納得するものではなく憤懣だけ募る…

こういう例は多数耳にします。

あるいは私の父が、難病の末に癌と結核で亡くなったように、大変な大病で苦しまねばならなくなったとき、
自分の行いが悪かったから罰が当たったんだと突き放されては、患者本人もその家族もひどく傷ついてしまう。



自己評価を超える不条理に見舞われたとき、仏教の世界では現生ではなく、前世の悪業が出てきたのだと考えるのです。

そんな前世のことまで引き合いに出されてはどうしたらいいんだと困惑してしまう。

キリスト教では人間ごときに神の意思がわかるはずはない、すべては神の御業であるからありのままに受け入れなさいという。

こんな不条理で理不尽な目に遭わされているのに、ただ黙って耐えろというのかと絶望してしまう。


プラスで良い状況では宗教の教えもすんなり受け入れられますが、マイナスで悪い状況になると、途端に神だの仏だのの教えが受け入れがたくなってしまう。

これは実に人間らしい感情だと私は思っています。



『ミリオンダラー・ベイビー』では、
あれほど敬虔なカトリック教徒だったフランキーが、最後に神の不条理に抵抗したかたちで幕を下ろします。

彼は宗教の教えを徹底できず、人間の弱さに負けて神を裏切ったのか。

それとも愛する人の希望に応え、苦しみから救うために、宗教の鎖を断ち切ったのか。


監督のクリント・イーストウッド、政治・宗教的にもリベラル寄りの中庸を標榜しているようで、
私の主観では後者の主張のように思えますが、観る人によってラストの感想は異なるものと思います。

実際、賛否両論の作品だったようで、アメリカ内部でも受け入れがたいと感じる人は大勢いたようです。



神の意思は人間ごときにはわからず、ときに不条理もあり得るという真理は大昔から旧約聖書『ヨブ記』などでも語り継がれています。

かいつまんであらすじを説明すると、ヨブという男がいた。
とても信心深く、幸せに正しき生活を送っていて、一点の曇りもないような"良き人"だった。


神もそのヨブの徳高い姿によしよしと微笑ましく眺めていたけれど、
そこにサタンがやってきて、
「ヨブが神を信仰するのは、神が恵みを与えているからだ。恵み欲しさに信心深くなってるだけで、ひとたび災難に遭わせればたちどころに信仰を失ってしまう」
とヨブを試すことをけしかけるのです。

そこで神はヨブへ試練を与えることにする。

自然災害で子供たちが大勢死んだり、家畜や財産を異教徒の盗賊に取られたり、ヨブ自身にもかゆ痛い皮膚病を生じさせ、とにかく散々。

ヨブの友人たちも、「お前が何か悪いことをしかたら神が怒って罰を与えているんじゃないか」と因果論を持ち出し糾弾する始末。

しかしヨブにはそんな心当たりは毛頭ない。どこまでも清く正しい男だった。

どんなにひどい目に遭っても、ヨブは神への信仰を失わなかったが、
ただ自分にはこんな罰を受けねばならない理屈がわからない、苦しまねばならない道理を教えてほしいという。

「なぜ私なのか」という問いは、古今東西、不幸に見舞われた者たちの心底からの声として、小説でも演劇でも様々な形で表現されていますね。



ここにきて私もそうですが、ごく一般的な人間は、
自分が幸せに平穏に生きているのがデフォルトであり、不幸な目に遭うと不当で異常なことだと考えてしまう。

そういう考え自体が、自己中心的で身勝手な思い上がりであり、神の意思など人間ごときではわかるはずがないのだから、
起こったことに対して、その不当さに腹を立てたり因果を探ることはよしなさいという戒めが込められているようです。

また恵みを期待して神への信心を持つことも、浅ましい人間の欲であるとこの『ヨブ記』で語られています。



人間の理解を超えた不条理というのは、自然災害にもよくあります。

大災害があったからといって、「自分の行いが悪いからだ…」と因果を探っても埒が明かない。
やむなく受け入れ、自分ができることから始めるしかない。


とはいえ、日常の手に届く範囲の中では因果応報の仏教理念を実行していたいものです。

因果応報の概念は、仏教だけでなく一神教の教えでも説かれていて、結局のところ宗教というものは、形は違えど根本は同じなんだと感じています。


使途パウロが書いたとされる新約聖書の『ガラテヤ人への手紙』などが有名なのですが、
第6章にはこんな言葉があります。


  まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。

  すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。

  わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。

  だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。



「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」という言葉こそ自分への教訓として、私は日々コツコツと自分の仕事を重ねているような気分でいます。


今自分が平穏に幸せに暮らしていることが当たり前なのだと思い上がることなく、
突然の不幸に見舞われたときも、その不当さに怒り嘆くよりも、ありのままに受け入れた方が苦しみはまだ幾分楽になるかもしれない。

そして自分の行いがいつか自分に返ってくることを忘れずに、自分の行動を選択して起こし重ねていくのだという、
至極当たり前のように思える暮らしの理想こそが、結局は宗教の本質なのかなと思います。



『ミリオンダラー・ベイビー』から始まって、思考は結構飛躍してしまいましたが、映画から私はこんなことを考えていました。


主人公が全く救われずに終わる作品に我々日本人はよく傷ついてしまいますが、
神の不条理という考えを知っておくと、うっかりその手の海外作品に触れてしまっても心のダメージは小さくできるかもしれません。


そして不条理で理不尽な目に遭う主人公の役割というものを考えてみると、
いたずらに胸糞だと作品の制作者を誹謗中傷するような腹の虫も抑えられるでしょう。


阿刀田高先生は、『ヨブ記』のヨブは、人の目線で見ると理不尽なむごい仕打ちを受けた人に見えるけれど、
一つ高い次元に立って眺めれば、意味のありうることであり、理にかなったことなのだ、 と仰っています。

ヨブはとてつもない苦痛に苦しめられたけれど、こうして書物になって後世に伝えられ、ずっと人々の思案の対象になる。
それがヨブの役割なのである、
という阿刀田先生の言は、創作における救われぬ主人公の一つの理想的な解釈かなと思います。



Date: 2019/04/07(日)


Episode 6-2 終了しました

今日でEpisode6-2もおしまいです。


基本的に陰気な漫画を描いていますが、大学時代編のEpisode6は青春もののような感じで、
明るく楽しい雰囲気になるよう努めました。

友情あり恋ありの(私にしては珍しい)爽やかなストーリーを描きたかったのです。

読者の皆さまも楽しんでいただけたら幸いです。


さて今回のお話は、最終更新の102〜106ページのセリフが要点だったかなと思います。


自分に自信がないゆえに人の親切をうまく受け取れないときがある。


主人公は傲慢でかつ臆病ところもある性格で、
幼い頃の彼が人とうまく接してこられなかったのは、自分の生い立ちへの負い目や、自分への自信のなさゆえかなと考えていました。


もう何年も前に描いた話になってしまいますが、
Episode 3で小学校に通い出した彼に、周囲のクラスメイトは当初誰も冷たく当たっていなかった。

むしろ一緒に遊ぼうと誘ったり、手の包帯を心配してくれたのに、
彼はその親切をうまく受け取ることができずに、敵意で返してしまった。

こんなエピソードを思い出してくだされば、作者も嬉しいです。


そしてこんな例は、状況が違えど色んな場面で我々の日常の中にあるのではないかなと思います。


良質な人間関係が築けないのは、差し出された親切をうまく受け取れなかったり、
自分自身への劣等感が、攻撃的な何かに変わって他者に向けられることが原因なんじゃないかと考えたり。


私も自分の過去の反省から、今回のラストを作った経緯があります。


私自身、大学時代ロクに友達を作らず一人でいて、
あのときもっと社交的でいればよかった…という反省の気持ちが強くてこのセリフを書きました。

人を避け、その親切を受け取れなかったのは単純に自分に自信がなかったからで、
あのとき申し訳ないことしたな…という後悔が未だに残っています。


けれど自分の嫌なところを克服する行動を起こすと、
自然と人と関わることも好きになるし、親切も素直に受けてお返しができるようになります。


主人公の傲慢でかつ臆病な性格が、
都会に出て進学するという行動を起こして変われたということを、今回のお話で描きたかったのでした。



一方で「実際一人でも大学生活くらい送れるよ」というセリフを推敲で残したのは、
正直一人でも問題ないからです。生きていけます。

人は栄養にも毒にもなるので、無理なときに無理につるむ必要はありません。


人と関われる余裕は時期や状況によって変わるので、
暗に仲間サイコー、みたなノリは避けました。


心を壊してまで無理に人と接したり、その声に耳を傾ける必要はないのです。

けれど、しばらく時間をおいて自分の中に余裕ができてきたら、
またゆっくり人との出会いを再開してほしいなと思います。


世の中には嫌な人もいる一方で、良い人たちも多い。とても多い。

私はこの齢になってつくづくそう実感しています。


そしてかつては嫌なやつだと思っていた人も、たまたま人生の中で嫌な人間であった時期だったのかもしれない。

(生涯死ぬまで嫌な人間だったという人がいるのだろうか?)

自分が変われるのと同じように、相手もまた時とともに変わっているかもしれない。

再開する機会があれば、物怖じなく会ってみるといいかもしれない。



… とまあ、文章はあらぬ方向にフラフラしておりますが、
とにかく今日でお話も一段落です。


今とても疲れているので、しばらく漫画制作から離れたいなと考えています。

積読になっている本を消化したり、感想を描きたい本や映画が溜まっているので、それを言葉に起こしたい。

きっちり文章を書くとなると、色々調べながら書いたりして時間がかかるので後回しになっているものばかりです…


そしてまたEpisode 6の最終話に取りかかります〜
Date: 2019/03/30(土)


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