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科学は政治の奴隷だ

HATSHEPST Episode 8-1 74ページ

昨年からポッドキャストを好んで聴いている、と事あるごとにこぼしてきましたが、最近のお気に入りは『コテンラジオ』という歴史の解説番組です。

世界史・日本史を問わず、まずは有名どころから解説してくれる番組なのですが、語り口が現代の若者らしい軽快さでかつ、極力嚙み砕いて理解を促してくれる。

「歴史」と一言で言えども愛好家も多く、解釈も様々。ネット上には昔から(それこそ私が初めてネットに触れた当初の20ん年前から)歴史に関連するコンテンツを発信している人は数多くいました。

大学受験の世界史の勉強のために、私もそうした歴史サイトに足しげく通っていたので記憶は未だ色濃い。ダラダラと文字だけの見出しリンクが並んでいる中から、「中国王朝・唐」なんかのリンクをクリックする。すると別ウィンドウでページが開き、まだダラダラと文字だけのページを読む。完全に知識は断片化してインプットされてしまっている。20ん年前のテキストをベースにする歴史サイトなんかそんなもの。

その頃の本当に文字しかない媒体で世界史を学んでしまった私からすると、音声や映像で歴史を勉強できるとはなんて革命的なんだろうと思う。目から能動的に文字を読んで理解しようとしても、一瞬でも「難しい」と思ってしまったらそこで集中力は切れてしまう。文字から独学するというのは案外障害が多い。

いやもちろん、学校の先生や塾講師から生で直接授業は受けていたとはいえ、いつでも、どこでも、その講義が聴けるわけではない。理解が飛んでしまった部分を繰り返し再生できるわけでもない。ところが今のYoutubeやポッドキャストならそれができる。しかもそうした講義を発信してくれているのは一人ではない。自分の肌に合った発信者の講義を選り好みして聴くこともできる。学ぶのに明るい時代になったものです。

『コテンラジオ』のすばらしいところは、重箱の隅を楊枝でほじくるような細かい歴史トリビアを断片的に発信するようなコンテンツではなく、歴史を大枠で捉えて全体のつながり、流れを理解できるよう構成を工夫されているところです。

本来、歴史は断片的でなく大小の事物と面々としたつながりがある。中東の動きが、波となってヨーロッパに届きそこで新しい運動となったこともある。たった一人の思想家の発想が、一国に革命をもたらしその後の世界人類の思想を変えたという例もある。事象の流れは一度も途切れることなく歴史を形成しているのです。

しかし歴史教育の現状は、歴史という事象の流れをいったん地域で分割してしまっている。古代エジプトの話をしていたかと思えば、そのまま古代ギリシアやローマに進み、中世初期のヨーロッパにまで飛んでしまう。教科書の次章では古代中国の話になるのに、時代は連続していない。むしろクレオパトラとかよりよっぽど古い時代やんけ。

こうして歴史がバラバラに分割されてしまうと、あとはもう年号と出来事の暗記科目のようになり下がる。歴史に苦手意識のある人は暗記科目であると刷り込みが先に来てしまうからではないでしょうか。

『コテンラジオ』はそうした歴史教育のおかげで分割されてしまったパネルとパネルの隙間を埋めてくれるパテのような番組なのです。マクロ歴史学的観点に立って、歴史の流れ全体を見渡しながら、「なにがこういう理由でこうなって、ああなるのか」を当時の人々の感覚を探りながら教えてくれる。現代人から見ると誠に不可解でバカのようにさえ見える過去の人類の動きも、あの当時の人々にとっては合理的な判断だったと知ることができる。他者を理解することは、上から俯瞰するだけでは到底不十分で、同じ目線に立って時間の流れまで汲み取らないととても理解には及ばないのだと(それも十分かは疑わしい)教えてくれるリベラルアーツ的な番組でもあります。

国民国家という概念

『コテンラジオ』が好きすぎて冒頭の紹介が長くなってしまいました。

さてここからが本題。「国民国家」という概念を皆さんは普段どれくらい意識しているでしょうか?

例えば、日本は日本国という国家であり、我々はその国民である。その国にはその国という国家があり、そこに住む人々はその国の国民である。

現代人の感覚からするとあまりに当たり前すぎることなのですが、この「国民国家」という概念が明確に誕生したのはフランス革命からだと言われています。それまでの人類には、「国家」という大枠も、そこに住む人々が同じ「国民」というアイデンティティを共有するという考えがなかったというのだから不思議なものです。

『国民国家という概念が誕生してから、教育は国家の仕事になった』という『コテンラジオ』の解説を聞いて、ああなるほどと、ここしばらくぼんやり考えていたことがすっきり言葉に置き換えられたので漫画に採用することにしました。

国家の教育によって育てられた人材は国家の政治によってその動向を決定づけられる。

科学はより金の集まるところでより発展する。

金の流れは政治によって決まる。

つまるところ、科学は政治の奴隷だ、ということです。

優秀な科学者はより金のあるところに向かう

優秀な科学者はより金のあるところに向かうという傾向を思うとき、いつも想起するのはキャリー・マリスというPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)を発明してノーベル賞まで受賞した天才肌の奇人のことでした。

マリス博士の奇想天外な人生』という自伝のエッセイで、若かりし時代のマリス博士は自分の進路で迷っていたことを知ることができます。

向かうべき進路とは、宇宙工学かバイオテクノロジーか。なぜそのふたつなのか?理由はお金が稼げるから。

冷戦の真っただ中の当時、米ソの宇宙開発合戦が苛烈を極めてそこに莫大な金が投入されていました。一方でバイオテクノロジーはDNAの二重らせん構造が発見されて以降、目覚ましい発展を遂げつづける新進気鋭の分野でした。

結果マリス博士が選んだのはバイオテクノロジーで、その後閃きの力を得てPCRという偉大な発明を成し遂げます。人類の進歩を推し進めたこの偉大な発明が、「金を稼ぎたい」という奇人の素直な欲望から生まれたのはなんとも数奇というか、これはこれで一つのドラマだなと愉快な気持ちにさせられる。

そしてこの天才的な奇人が偉大な発明に至ったのも、アメリカという国家の政治があってからこそという事実は否定しがたいことです。

マリス博士が進路の焦点を宇宙工学かバイオテクノロジーに絞ったのは、そこにアメリカが政治的な理由で金の流れを構築していたからに他なりません。金脈に優秀な人材が集まり、そこで大きな成果を上げる。そうするとそこにまた金が集まり、更に多く大きな成果が上げ続けられる。

こと科学の世界においては、清貧さや高潔な理想だけでは太刀打ちできないものがあると痛感させられます。

科学と政治と宗教の三すくみ

この漫画の中の国家研究員と呼ばれる選りすぐりのエリート科学者たちはそれはそれは高給で厚遇されている…という設定なのですが、一方で軍人の監視下にあるのは国家が莫大な税金を投入してその人材を育てたからです。きちんとそれを還元してもらわねば困るのです。

そういった説明が足りていないな…と自覚したところに、『国民国家という概念が誕生してから、教育は国家の仕事になった』という言葉をコテンラジオから聴き、ああそうだったそうだった、そのことを漫画の中に描いておこう、と思い立ったのでした。

絶望的なまでに主人公が軍人ストラウスに服従を強いられる理由を補強する目的もありました。

科学は政治に抗うことはできない。政治がなければ科学が育たないからです。

私は『HATSHEPST』を制作するにあたって、3人の男に象徴を設定させました。

メタファーとしての科学は主人公シエラマイスト、政治は軍人ストラウス、宗教はマルセル。本作はこの3人の三すくみの構造を取っています。

グー・チョキ・パーのじゃんけんのような三すくみです。

科学は宗教に勝つ。

いや、そんなことはないだろうというご高説もごもっともですが、少なくとも漫画の架空の未来世界ではかなり科学が優位の立ち位置にありそうです。

政治は科学に勝つ。

ストラウスの圧倒的な道理と弁論に主人公は歯向かうこともできません。

宗教は政治に勝つ… のか?

政治さえ動かしうる宗教の力(むしろ歴史的には政治=宗教だったのだけれど)を過去編が終わったあとの第三部で描いていきます。そうだいな目標です。あと何年かかるだろう。でも頑張ります。

スキームが崩れる日

フランス革命以降、教育が国家の仕事となった時代から今日に至るまで、国が税金を投入して子供たちに教育を与え、成長した彼らが労働し、納税するというスキームは世界各国で変わっていません。

国家は子供たちに投資し、未来でその投資を回収しなければならない。

国の税金で育てた人材がよその国に行ってしまって労働と納税をしてくれなくなってしまったら困るのです。しかしそういった例は今後ますます増えていくだろうなという押し推量があります。人間の移動があまりに簡単になっている。そして在宅勤務が当たり前になった今、取引先は国内の企業に限らず、ワールドワイドに受発注できるようになったのです。

そしてこれからの時代の子供たちが、教育を通じて国家への帰属意識を持ち続けられるのか不明です。

それこそ『コテンラジオ』のように、ネット上には有志による有益な教育コンテンツが溢れていて、その気になれば外国の教育コンテンツで学ぶことだってできる。学校に行かなくても学ぼうと思えば学べる手段は潤沢に揃っています。

そうしたネットに溢れるボーダーレスな教育コンテンツに触れて国への帰属意識が薄まる人々が増えたら、もはや現在の教育投資スキームは存続できなくなるでしょう。

その頃には人々の意識に国家という枠はなく、また別の何かに置き換わっているはずです。

歴史を変えていくのは特定の人物の存在や直接的な事物ではなく、人類全体に横たわる意識なのだとコテンラジオから教わったわけですが、旧態依然とした教育投資スキームが崩れる日には、人類の意識は今と全く違ったものになっているのでしょう。

そんな未来人と私との会話は成立しないはずです。それくらい認知の転換が起こっているはず。



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