エントリー

2021年10月の記事は以下のとおりです。

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』

20211012214449.jpg

 

先日から腰が痛い腰が痛いとボヤいていましたが、いよいよ耐え難い痛みになってきて「ここでちょっと休まないと気を病みそう」と危機感を覚えたので、漫画の進行も中途半端をいいところに小休止することにしました。

長時間机にかじりつく原稿作業というのは、当たり前ながら腰に悪い。

ゴロンと横になって本を読もう。

実はあおむけに寝る姿勢も腰に良いとは言えないのですが、ともかく今は原稿から離れて休むのだ。

そして溜まりに溜まっている積読を少しでも解消するのだ。


そうして解消したい積読の筆頭候補に挙がっていたカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』をようやく読むことができました。


私は分子生物学者の福岡伸一先生が大好きだと、過去何度も日記やTwitterで言及しておりますが、
その福岡先生はカズオ・イシグロの大ファンで、殊の外この『わたしを離さないで』を推していたので読まないわけにはいきません。

さすがにノーベル文学賞を獲った作家です。
物語の人物たちがどんな存在なのか、意識しないでも前知識は既に入ってきているけれど…

それでも読み進めながらどんどん溶けてゆく謎に、小説の構成の緻密さに、感嘆や興奮を覚えながら読み進めました。


カズオ・イシグロ本人曰く、「ネタバラシOK」らしいのですが、やっぱり読者的には「ネタバレは勘弁」してほしいとろこなのであまり詳しい感想はここには書きませんが、
私がまず小説家の手腕に恐れ入って真似をしたいと思ったのが物語の構成でした。

 

物語の主人公たちは、ある残酷でグロテスクな使命を背負わされている。

けれどあっけらかんと自分の使命を、運命を受け入れた大人になっているのは、幼少期の頃から特定の言葉を理解できないうちから刷り込んでいるから。

その言葉の意味は知っているけれど、理解はできない年端のうちから、折々の機会にその言葉を混ぜ込みながら子供たちに話すのです。

そうすると、子供たちの記憶にまず言葉が残る。

成長と共になんとなく意味を察していく。

そしていよいよ真実を告げられても「やっぱりそうだったか」と自分の推察が正しかったことにむしろ安堵して、残酷な真実の衝撃は緩和されて受け入れられる。

そうなるように準備はできているからです。

これと同じ構造が小説の中で展開されていました。

 

「提供」という言葉は、実に最初の1ページ目から登場するのですが、無垢な読者は何のことだか意味は分かるけれども理解はないままに読み進めます。

ページを繰って、物語の世界の様相をどんどん把握していく。無垢な子供の成長に伴う学習に近い感覚です。

そうしてだんだん「提供」という言葉の真実の意味を察していく。

物語の中盤ではっきりその意味を開示されると「やっぱりそうだったか」という気持ちになって、
自分の推察の正しさ、自分の利口さに(それが作家にお膳立てされているとも気づかず)ちょっと鼻が高くなったりするほど。

残酷でグロテスクな真実を受け入れる準備もまた、読者側にもできあがっているので実にあっけらかんと物語は進みます。

 

なるほどこういう言葉の刷り込みは小説だからこそできる技だと思ったのですが、漫画でもできないだろうか。

漫画は絵と言葉で成り立つメディアだから、単純に言葉のアイテムを用意してもいいのだけれど、できれば「絵」でその刷り込みの技法が使えないか。

カズオ・イシグロ流の構成が漫画でできないか、これから思案していこうと思いました。

 

福岡伸一先生は、カズオ・イシグロの作品のテーマは一貫して「記憶」にあると言います。

それを確認するためにも、他の作品も読んでみたいと思いました。

ああまた読みたい本が積み上がってしまう。

でもそれくらい、他の作品も… という興味をそそられる素晴らしい読書経験になりました。

 


ところで、本作『わたしを離さないで』の中で、私が一番謎に思う点があります。

主人公をはじめ、物語の「提供者」はどうして自分の使命に抵抗しないのでしょうか?

癇癪を起すほどに不条理だと感じている。友人・恋人を失って泣くほどには感情がある。

それでも彼らは抵抗しない。甘んじて自分の運命を受け入れている。なぜ?

 

そういえば、私たち人間も最終的には必ず死ぬことは知っている。

死に恐怖することはあっても、死そのもののの不条理に怒る人はそんなに聞かない。(少なくとも私は「死」に怒っている人を見たことがない)

必ず死ぬことは知っているのに、多くの人が生きるのを疎かにせず活動している。

私たち人間も、物語の「提供者」が運命に無抵抗であるのと同じように、死そのものに無抵抗じゃないかと気づきました。

必ず死ぬことを知っているのに、なぜ?

 

そもそも物語の「提供者」に教育が与えられているのが不可解です。とても非効率的に感じます。

彼らには十分な保護と教育が与えられ、積極的に絵画や詩作などの芸術品を残すことを推奨されている。

若くして使命を果たせば泡沫に帰す存在なのに。

 

カズオ・イシグロが小説の中で比喩的に扱った芸術品とは、突き詰めると私たち人間の活動の目的が「記憶を残すこと」に集約するのではないか。

人間個人が生前に獲得した学習も、死ねばそれは次世代には持ち越されない。

生前に獲得した形質も、(基本的には)次世代に遺伝しない。

けれども人間は記憶を残して次世代に託すことができる。何らかのメディアに残せは、相当広く、長く、記憶は共有される。


福岡伸一先生は「記憶は死に対する部分的な勝利である」と度々エッセイの中でも言及されているけれど、
カズオ・イシグロの小説の比喩もまた、同じことを文学のかたちで表現しているのではないかなとも思いました。


そして『わたしを離さないで』がハヤカワepi文庫から出ているのもまた……。


物語の中の普通の人間たちは、「提供者」をできれば隠して蓋をしておきたい不可触の存在と捉えていました。

けれど視野を広げて見ると、読者側の私たち人間も、死の運命を知ってなお無抵抗にあっけらかんと生きている様子は「提供者」と変わりない。

さもすると、私たち人間を更に高次の段階から観察している存在もあるのでは…?

 

なんて考えるのは拡大解釈が過ぎるのかもしれないのですが、カズオ・イシグロが純文学ではなくSF作家だと固辞して見るのならば、
そういうゾッとする解釈もアリかなぁ、と思うのでした。

 

  • 1

ユーティリティ

- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

カテゴリー

  • カテゴリーが登録されていません。

新着エントリー