- 2021/08/28
生きているものが死んだ者のことを再解釈する
『ばべるばいぶる』というすごいサイトがあります。
聖書を翻訳という文学的学問の側面から切り出したような、素晴らしい研究資料です。
サイト内に用意された膨大な数の資料群、それらを丁寧に一つ一つ解説している生きた言葉、それを裏打ちする豊かな知識。
これを作り上げるに要する労力も時間も、尋常でないものだと想像するに易い。
それを苦にすることなくこなしてしまう、創造者のあくなき研究意欲。
知の巨人が遺した、知識の塔。日本のネットリソースに遺された大変な宝物です。
ばべるばいぶる:https://www.babelbible.net/bible/bible.cgi
ばべるばいぶるを作った管理人は、植田真理子さんという方です。
植田真理子さんは、「真理子日曜学校」というキリスト教徒のためのサイトを運営されていたほか、
インドの語学研究のためのサイト「まんどぅーかネット」や漢語学習サイト「青蛙亭漢語塾」、
大川周明のファンサイト「大川周明ネット」も運営されていました。
(「まんどぅーかネット」と「青蛙亭漢語塾」はご主人の資料をweb化されたそうです)
真理子日曜学校:https://www.babelbible.net/mariko/mariko.cgi
まんどぅーかネット:http://www.manduuka.net/index.htm
青蛙亭漢語塾:https://www.seiwatei.net/
大川周明ネット:https://www.okawashumei.net/index.cgi
管理人・植田真理子さんの言語学への造詣はただものではなく、聖書に関する知識やご自身の見解にも目を見張るものがありました。
「すごい人がいるんだなぁ…」と私は圧倒されつつ、『ばべるばいぶる』を利用させてもらっていました。
『ばべるばいぶる』を知ったのがいつ頃だったかも覚えていません。
とにかく、ものすごい人が運営してくれているものすごい資料群がものすごくありがたい。
ただ純粋にそんな気持ちで利用していたのです。
そんな植田真理子さんは2015年3月にご逝去されていました。
それを随分後から知ったとき、ショックのあまり数日間は茫然自失となりました。
真理子さんが遺した言葉が私の胸に深く刻み込まれた感覚があり、
また一度もお会いしたことがないながら、とても親近感を抱いていた真理子さんを助けられなかった(出過ぎた表現ですが)自分に、とても後ろめたい気持ちが残りました。
植田真理子さんはキリスト教徒の家庭に生まれたというわけではなく、
聖書の勉強を独学でしているうちに信仰心に芽生えたとのことです。
あくまで聖書の学びは独学で、特定の宗派や教会に属していたわけではなく、すべて自発的なめざめであったといいます。
真理子さんのキリスト教、聖書に対する考えは一種独特なもので、そのために他のキリスト者と対立・反目し合うこともあったそうです。
また性自認が女性の男性として生まれ、晩年は性転換手術をし、戸籍も変え、名実ともに女性になられた人でもあります。
キリスト教に対する独自の考えや、LGBTであることが理由なのかは定かではありませんが、
真理子さんは神学校への入学も拒絶されたそうです。
どこも門戸を開いてくれないのなら、独自の教会をインターネット上に作ろう、そんな発想から誕生したのが「真理子日曜学校」でした。
「真理子日曜学校」では、真理子さん独自の聖書への考えが大いに自由に論じられています。
中でも私が賛同するのは「聖書無謬説に反対します」という彼女の論旨です。
「聖書無謬説」とは、"聖書は神が書いた書物であるから一字一句間違いはない"という原理主義的な考えに基づく教説で、今でも原理主義的宗派の主幹となる考えです。
聖書は神が書いたってなんだよ?人間が書いたに決まってるだろ?
不信心な私はそう思って憚らないのだけれど、聖書は一字一句間違いはない神の言葉なのだから、聖書こそが絶対なのである、と信じている人々も世界にはいるのです。
(引用)
> 聖書は決して神様が書いたものではなく、人間が書いたものです。
> 仮に書いたときに神様の霊感が働いたとしても、不完全な生き物である人間はそれをそのまま受け止めて書き留めることはできず、いろいろな間違いやゆがみが生じてしまいます。さらにそれが書き写し書き写しされていくうちに、伝言ゲームのように書き誤りが起こったり、書き写した人の主観で表現が変わってしまったりという過程を経てきたのが、いま私たちが目にしている聖書です。
> ですから聖書には誤りや矛盾がいっぱいあります。
> しかし真理子にとって興味深いのは、そういう誤りや矛盾をも、浅はかな考えで書き換えたりせず、そのまま受け継いできた聖書受容の歴史です。
> (略)こんなものは適当に編集したり切り捨てたりしたほうが、キリスト教にとってははるかに好都合なはずなのに、あえてそのまま受け継がれている。こういうところに真理子は不思議さと面白さと由緒深さを感ぜざるをえません。
一から独学で聖書の勉強を始めた真理子さんが、誰かからか幼心に教説を刷り込まれたわけでもなく、信仰に目覚めた理由がまさにこれという。
私も大いに頷いてしまうのです。
私が聖書を物語として学んでいるのは、西洋美術史への興味ゆえに他なりません。
芸大で西洋美術を学ぶとき、キリスト教の知識がなければそもそも話にならないのです。
私の実家には仏壇があり、七五三に神社へ赴き、クリスマスはご馳走を食べ、プレゼントを用意したりもらったり、大晦日には除夜の鐘をつき、そのまま初詣に向かう、典型的な日本人。
キリスト教徒ではありませんとは言えますが、その信仰を拒絶したり否定したりする気持ちは何らない。
むしろ2000年に及ぶキリスト教の歴史とその教義には敬意を表します。
多くの矛盾や誤記を含んだままでも受け継がれてきた聖書、それを軸にして発展し、人類史を大きくうねらせたキリスト教。
私はそこに大いに感じ入るものを得ています。
真理子さんの聖書信仰の根幹は、
「聖書にはウソも悪徳も差別も満ち溢れているけど、そういう部分を編集せずに受け継がれてきた歴史の重みに敬意を表する」だという。
『ばべるばいぶる』という知の遺産の制作に当てられた熱意こそがこれなのだと、私は真理子さんにも敬意を表します。
本当に、素晴らしい遺産を残してくださりました。
最晩年、真理子さんは「喫茶真理庵」という古楽喫茶の経営を始められました。
古楽は私も好きで、ああいつか横浜に行く機会があれば行ってみたいなーとぼんやり思っていました。
真理子さんは、喫茶店を宣教の場として開くことが神の使命だと、あるときその意識が降り立ったのだそうです。
そこからトントン拍子でお店を開店、しかし経営は思わしくなく、数か月後に真理子さんは亡くなりました。
遺された遺書から察するに、自死なさったと思われます。
遺書から滲み出る真理子さんの疲れに、私はいたたまれない気持ちになりました。
いつか横浜に行く機会が… じゃなくて、そのときすぐに行って、真理子さんの寂しさを埋めてあげられればよかった、と、
ご逝去を知ったのが随分後なのにも関わらず、出過ぎた後悔に胸が締め付けられる思いでした。
真理子さんの遺書については、ご友人の牧師さんが追悼されています。
https://fujisawabethel.org/2021/03/15/21_03_14/
真理子さんは飲食店の経営のノウハウはそう持ち合わせてはなかったはず。
素人目に見ても、集客のために改善させられる点はあった。
商業的な成功が神の使命の完遂とイコールとなるかは分かりませんが、少なくとも真理子さん自身の孤独は癒されていたはずです。
私も参上して、コーヒーや軽食を頼んで、古楽について真理子さんとたくさんおしゃべりしたかった…
小なりと私でも、この偉大な人の沈む心の助けになりたかった。
神の召命というのが、かくもつらいものとは思いませんでした。神様、これではあんまりだわ。
遺書に遺された真理子さんの言葉が胸に刺さります。
神の使命と大それた自覚はしないでも、たくさんの人が辛苦に耐えながらいつか報われるものと続けているものがある。
それも決して全員が報われるものでもないのだろうな。
そもそも神の意思など、小さな人間が理解できるわけでもなく、人間が神のその不条理に振り回されるお話は聖書にはたくさんある。
古代から受け継がれてきた真理というのもまたこれなのだと、私は大変に苦しい気持ちになります。
10年以上の年月をかけて、やめようかやめまいかと天秤に揺れながら一つの漫画を描き続けている私には、
弱っているときにその訃報を知ったらポッキリ心が折れかねない言葉でした。
取り返しのつかない時間と交換して、色んな痛みに耐えながら歯を食いしばって描いてきました。
もうすっかりアラフォーになって、これからは老いと時間と更なる痛みとの戦いの連続です。
あと何年かかるか分かりませんが、ようやく完成させられた、その先にあるのは「何もない」なのではないかなと、うっすらそんな予感があります。
その予感は年を追うごとに濃くなってゆくでしょう。
そうして虚無に近づいたとき、「あんまりだわ」と絶望しない自信はありません。
いつか報われると信じて辛苦に耐えている者にとって、真理子さんの死と遺書の言葉はあまりに辛辣すぎました。
私は偉大なこの人の死をどう受け止めていいのか、未だ自分の言葉になおすことができません。
しかし真理子さんのご友人の北口牧師の追悼にある末尾の言葉は動揺する心の慰めになったのでご紹介しておきます。
(引用)
> 死んでしまったということ、殺されたことからキリスト教の思考は始まります。
> それは聖書が書いた先達たちと同じように、生きているものが死んだ者のことを再解釈することであります。
> それはもしかしたら死んでしまったひとにとっては残酷なことかもしれません。
> しかし、生きている人にとっては必要なことかもしれません。
「生きているものが死んだ者のことを再解釈する」
私はこの言葉を噛みしめながら、生きていたいと思います。