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2021年08月の記事は以下のとおりです。

生きているものが死んだ者のことを再解釈する

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『ばべるばいぶる』というすごいサイトがあります。
聖書を翻訳という文学的学問の側面から切り出したような、素晴らしい研究資料です。

サイト内に用意された膨大な数の資料群、それらを丁寧に一つ一つ解説している生きた言葉、それを裏打ちする豊かな知識。
これを作り上げるに要する労力も時間も、尋常でないものだと想像するに易い。
それを苦にすることなくこなしてしまう、創造者のあくなき研究意欲。

知の巨人が遺した、知識の塔。日本のネットリソースに遺された大変な宝物です。


ばべるばいぶる:https://www.babelbible.net/bible/bible.cgi


ばべるばいぶるを作った管理人は、植田真理子さんという方です。

植田真理子さんは、「真理子日曜学校」というキリスト教徒のためのサイトを運営されていたほか、
インドの語学研究のためのサイト「まんどぅーかネット」や漢語学習サイト「青蛙亭漢語塾」、
大川周明のファンサイト「大川周明ネット」も運営されていました。

(「まんどぅーかネット」と「青蛙亭漢語塾」はご主人の資料をweb化されたそうです)


真理子日曜学校:https://www.babelbible.net/mariko/mariko.cgi

まんどぅーかネット:http://www.manduuka.net/index.htm

青蛙亭漢語塾:https://www.seiwatei.net/

大川周明ネット:https://www.okawashumei.net/index.cgi

 

 

管理人・植田真理子さんの言語学への造詣はただものではなく、聖書に関する知識やご自身の見解にも目を見張るものがありました。

「すごい人がいるんだなぁ…」と私は圧倒されつつ、『ばべるばいぶる』を利用させてもらっていました。

『ばべるばいぶる』を知ったのがいつ頃だったかも覚えていません。

とにかく、ものすごい人が運営してくれているものすごい資料群がものすごくありがたい。

ただ純粋にそんな気持ちで利用していたのです。


そんな植田真理子さんは2015年3月にご逝去されていました。

それを随分後から知ったとき、ショックのあまり数日間は茫然自失となりました。

真理子さんが遺した言葉が私の胸に深く刻み込まれた感覚があり、
また一度もお会いしたことがないながら、とても親近感を抱いていた真理子さんを助けられなかった(出過ぎた表現ですが)自分に、とても後ろめたい気持ちが残りました。

 

植田真理子さんはキリスト教徒の家庭に生まれたというわけではなく、
聖書の勉強を独学でしているうちに信仰心に芽生えたとのことです。

あくまで聖書の学びは独学で、特定の宗派や教会に属していたわけではなく、すべて自発的なめざめであったといいます。
真理子さんのキリスト教、聖書に対する考えは一種独特なもので、そのために他のキリスト者と対立・反目し合うこともあったそうです。


また性自認が女性の男性として生まれ、晩年は性転換手術をし、戸籍も変え、名実ともに女性になられた人でもあります。

キリスト教に対する独自の考えや、LGBTであることが理由なのかは定かではありませんが、
真理子さんは神学校への入学も拒絶されたそうです。

どこも門戸を開いてくれないのなら、独自の教会をインターネット上に作ろう、そんな発想から誕生したのが「真理子日曜学校」でした。


「真理子日曜学校」では、真理子さん独自の聖書への考えが大いに自由に論じられています。

中でも私が賛同するのは「聖書無謬説に反対します」という彼女の論旨です。

 

「聖書無謬説」とは、"聖書は神が書いた書物であるから一字一句間違いはない"という原理主義的な考えに基づく教説で、今でも原理主義的宗派の主幹となる考えです。


聖書は神が書いたってなんだよ?人間が書いたに決まってるだろ? 

不信心な私はそう思って憚らないのだけれど、聖書は一字一句間違いはない神の言葉なのだから、聖書こそが絶対なのである、と信じている人々も世界にはいるのです。


(引用)

> 聖書は決して神様が書いたものではなく、人間が書いたものです。
> 仮に書いたときに神様の霊感が働いたとしても、不完全な生き物である人間はそれをそのまま受け止めて書き留めることはできず、いろいろな間違いやゆがみが生じてしまいます。さらにそれが書き写し書き写しされていくうちに、伝言ゲームのように書き誤りが起こったり、書き写した人の主観で表現が変わってしまったりという過程を経てきたのが、いま私たちが目にしている聖書です。
> ですから聖書には誤りや矛盾がいっぱいあります。
> しかし真理子にとって興味深いのは、そういう誤りや矛盾をも、浅はかな考えで書き換えたりせず、そのまま受け継いできた聖書受容の歴史です。
> (略)こんなものは適当に編集したり切り捨てたりしたほうが、キリスト教にとってははるかに好都合なはずなのに、あえてそのまま受け継がれている。こういうところに真理子は不思議さと面白さと由緒深さを感ぜざるをえません。


一から独学で聖書の勉強を始めた真理子さんが、誰かからか幼心に教説を刷り込まれたわけでもなく、信仰に目覚めた理由がまさにこれという。

私も大いに頷いてしまうのです。

 

私が聖書を物語として学んでいるのは、西洋美術史への興味ゆえに他なりません。

芸大で西洋美術を学ぶとき、キリスト教の知識がなければそもそも話にならないのです。


私の実家には仏壇があり、七五三に神社へ赴き、クリスマスはご馳走を食べ、プレゼントを用意したりもらったり、大晦日には除夜の鐘をつき、そのまま初詣に向かう、典型的な日本人。

キリスト教徒ではありませんとは言えますが、その信仰を拒絶したり否定したりする気持ちは何らない。

むしろ2000年に及ぶキリスト教の歴史とその教義には敬意を表します。


多くの矛盾や誤記を含んだままでも受け継がれてきた聖書、それを軸にして発展し、人類史を大きくうねらせたキリスト教。
私はそこに大いに感じ入るものを得ています。


真理子さんの聖書信仰の根幹は、
「聖書にはウソも悪徳も差別も満ち溢れているけど、そういう部分を編集せずに受け継がれてきた歴史の重みに敬意を表する」だという。


『ばべるばいぶる』という知の遺産の制作に当てられた熱意こそがこれなのだと、私は真理子さんにも敬意を表します。

本当に、素晴らしい遺産を残してくださりました。

 

最晩年、真理子さんは「喫茶真理庵」という古楽喫茶の経営を始められました。

古楽は私も好きで、ああいつか横浜に行く機会があれば行ってみたいなーとぼんやり思っていました。


真理子さんは、喫茶店を宣教の場として開くことが神の使命だと、あるときその意識が降り立ったのだそうです。
そこからトントン拍子でお店を開店、しかし経営は思わしくなく、数か月後に真理子さんは亡くなりました。

遺された遺書から察するに、自死なさったと思われます。

遺書から滲み出る真理子さんの疲れに、私はいたたまれない気持ちになりました。

いつか横浜に行く機会が… じゃなくて、そのときすぐに行って、真理子さんの寂しさを埋めてあげられればよかった、と、
ご逝去を知ったのが随分後なのにも関わらず、出過ぎた後悔に胸が締め付けられる思いでした。


真理子さんの遺書については、ご友人の牧師さんが追悼されています。
https://fujisawabethel.org/2021/03/15/21_03_14/

 

真理子さんは飲食店の経営のノウハウはそう持ち合わせてはなかったはず。

素人目に見ても、集客のために改善させられる点はあった。

商業的な成功が神の使命の完遂とイコールとなるかは分かりませんが、少なくとも真理子さん自身の孤独は癒されていたはずです。

私も参上して、コーヒーや軽食を頼んで、古楽について真理子さんとたくさんおしゃべりしたかった…

小なりと私でも、この偉大な人の沈む心の助けになりたかった。

 

神の召命というのが、かくもつらいものとは思いませんでした。神様、これではあんまりだわ。

 

遺書に遺された真理子さんの言葉が胸に刺さります。

神の使命と大それた自覚はしないでも、たくさんの人が辛苦に耐えながらいつか報われるものと続けているものがある。

それも決して全員が報われるものでもないのだろうな。

そもそも神の意思など、小さな人間が理解できるわけでもなく、人間が神のその不条理に振り回されるお話は聖書にはたくさんある。

古代から受け継がれてきた真理というのもまたこれなのだと、私は大変に苦しい気持ちになります。

 

10年以上の年月をかけて、やめようかやめまいかと天秤に揺れながら一つの漫画を描き続けている私には、
弱っているときにその訃報を知ったらポッキリ心が折れかねない言葉でした。

取り返しのつかない時間と交換して、色んな痛みに耐えながら歯を食いしばって描いてきました。

もうすっかりアラフォーになって、これからは老いと時間と更なる痛みとの戦いの連続です。

あと何年かかるか分かりませんが、ようやく完成させられた、その先にあるのは「何もない」なのではないかなと、うっすらそんな予感があります。

その予感は年を追うごとに濃くなってゆくでしょう。

そうして虚無に近づいたとき、「あんまりだわ」と絶望しない自信はありません。

 

いつか報われると信じて辛苦に耐えている者にとって、真理子さんの死と遺書の言葉はあまりに辛辣すぎました。

私は偉大なこの人の死をどう受け止めていいのか、未だ自分の言葉になおすことができません。


しかし真理子さんのご友人の北口牧師の追悼にある末尾の言葉は動揺する心の慰めになったのでご紹介しておきます。


(引用)

> 死んでしまったということ、殺されたことからキリスト教の思考は始まります。
> それは聖書が書いた先達たちと同じように、生きているものが死んだ者のことを再解釈することであります。
> それはもしかしたら死んでしまったひとにとっては残酷なことかもしれません。
> しかし、生きている人にとっては必要なことかもしれません。

 


「生きているものが死んだ者のことを再解釈する」

私はこの言葉を噛みしめながら、生きていたいと思います。

 

 

聖書の言葉と素晴らしいサイトのこと

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漫画の中で登場する言葉について、作中で解説しておくべきなのでしょうが、
スマホユーザーでも読むに不自由ないフォントサイズで納めるのが難しかったのでここに解説を載せておきます。

言葉に敏感な人が調べてくれたり、わざわざ私のサイトを覗いてくれる殊勝な方に知っていただければいいなと。

 

「嗣業(しぎょう)」とは
"神によって与えられた財産、特に土地を指し、次世代へと受け継がせて行くべきもの" という意味です。

ほぼ聖書の中でしか使われない難しい言葉で、
聖書の元のギリシア語から苦心して新しい日本語として訳した言葉だと感じます。

土地こそが最も重要な財産であるという古代から続くイスラエルの民(ユダヤ人)の悲願が凝縮されたような言葉でもあります。

 

「嗣業」の聖書内での行間から見える意味、扱われ方は出典の箇所によって変わってくるのですが、
今回は特に旧約聖書『申命記』の32章における例を挙げてみます。

 

「いと高き者は人の子らを分け、諸国民にその嗣業を与えられたとき、イスラエルの子らの数に照して、もろもろの民の境を定められた」
『申命記』32章8節

 

「ネストレ・アーラント」という現代の全ての聖書の基準となるギリシア語聖書では、
「嗣業」の元の言葉に “κληρονομίας(遺産)” という語が使われています。

これが英訳になると “inheritance (相続財産・遺産)” という言葉に置き換えられます。


しかし「相続財産」や「遺産」という日本語は、何やら即物的というか、神から賜ったものという神聖さに欠けた印象の言葉です。
これは聖書を翻訳した先人たちも同じ感覚を抱いていたのでしょうか、新しい日本語を作り上げて意味の特別さを補っています。

苦心したその言葉の翻訳の変遷を簡単にまとめてみると…

 

・明治14年 ヘボン、S・ブラウンらによる翻訳委員会訳の明治訳新約聖書、通称「(明治)元訳」

⇒產業

・明治20年 文語訳聖書

⇒產業

・明治43年  エミール・ラゲ神父訳 

⇒相傅(ゆずり)の地

・昭和44年? 関根正雄訳

⇒嗣業


「產業」とは中国語の意味を指します。(日本語の意味とは異なるので初めは当惑しますね)“生活のもとになる資産”、特に不動産のこと。

漢文由来の意味が汲まれていて現代人には馴染みのない言葉なのですが、
漢字の持つ意味の奥深さ、それゆえに無限に言葉を創造できる日本語の懐の深さに感じ入ります。


さて、こんなことをどうやって調べられたのかというと、
『ばべるばいぶる(多言語聖書閲読)』という素晴らしいサイトのおかげです。

https://www.babelbible.net/bible/bible.cgi

 

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管理人さん自ら設計したCGIによって、日本語だけでなく、世界中様々な翻訳の聖書を瞬く間に検索・表示できるとんでもない仕様のサイトです。

明治期からの日本の聖書を手作業でテキストに起こしたり、テキスト化できていないものは画像PDFファイルとして用意されている恐ろしい充実ぶり。

聖書を翻訳という文学的学問の側面から切り出したような、素晴らしい研究資料です。


使い方は簡単。

1.旧約聖書と新約聖書のうち、「書名」と章番号を指定し、「章表示」ボタンを押すだけ。

2.「聖書1」「聖書2」で表示したい翻訳書名を指定すると、その章全体を比較表示することもできます。
(もちろん一つだけ表示させることも可能です。その場合、片方はブランク)


3.「節表示・修正」で任意の節のボタンをクリックすると、
その小節を他の翻訳書の同文から比較表示させることもできます。スゴイ!

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(巨大な画像ですが、そのwebキャプチャ)

 

『ばべるばいぶる』を知ったのがいつ頃だったかも記憶にないのですが、調べものをしていて偶然見つけて、
「すごいサイトがあるなぁ…」と、管理人さんの研究意欲にいたく感銘を受けて、それ以来度々利用しています。


管理人さんは植田真理子さんという方です。

その管理人さんについては、また後日お話をまとめて書き上げようと思います。

パンデミックがもたらす分断と、時代を反映した創作の意義と

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17年もこの漫画を描き続けていると、作中で扱うネタが現実味を帯びてくることもあります。


シリア内線から始まる難民問題が大きく報じられていた頃、漫画の中でも隣国からやってきた歓迎されざる難民とそれに伴う悶着やら問題やらを描いていたので、
「予言していたのか!?」と驚きのコメントをいただくこともありました。

いやいや、私にそんな能力があるなら、こんな日陰でモソモソ地味な漫画を描いているわけがありません。

本作を描き出した2004年当初は、アフリカ諸国の難民問題をイメージして描いていただけです。

インターネットとSNSの急速な普及により、中東・ヨーロッパの難民問題で人々の関心が上書きされているだけで、20世紀以降、世界は未だほうぼうの難民問題を解決できずにいるままなのです。

日々、新鮮な話題で人々の関心が上書きされ続け、特定のトピックの記憶が一時空白になる。

我々日本人にとっては、遠い外国の対岸の火事ではなおさらのことです。

難民問題というトピックも、アフリカ諸国の難民たちの記憶が途切れ、次にその話題が噴出したときには舞台は中東に移っていた。

そしてそのとき、たまたま私がこんな漫画を描いていただけ。


これという期限を決めず、粛々と表現を続けていたトピック・物事に、たまたまその時の人々の注目が集まると、時事の合致性に驚きや神秘性まで見出されてしまうことがあります。

しかし私が「2時20分」と指定しても、時計の針は1日に2回、必ずその時を指し示すように、
コンスタントに継続していたものが偶然人々の注目を浴びたとしても、それは単に無機的に回り続ける時計の針が指したにすぎないのです。

それをここぞとばかりに「これは予言だ」と自らを仰々しく吹聴するような人がいたら、それは詐欺師なので注意しましょう。

 


しかし私自身もまさか世界がこんな目に遭うとは… と今更ながら不条理に暗澹とした気持ちになるのは新型コロナウイルスによるパンデミックです。

パンデミックが始まった当初の2020年初春頃には、夏にはその熱でウイルスも沈静化して収まるだろうという根拠のない楽観がありました。

しかしどうも普通の風邪ではなさそうだ、と楽観は立ち消え、夏の灼熱も救いにはならず、解決は来年に持ち越し、と寂しい年末年始を過ごしました。

2021年になってワクチンの接種が始まっても、ウイルスの変異との戦いは依然収まらず、先の見えない混迷にいよいよ人々は疲れ果てています。

コロナさえなければ… と何度思ったかわかりません。

 

未だ出口が見つからないとはいえ、人々は未知のウイルスに対し学び、備えを整えてきました。社会は意外とたくましく廻るものです。

しかし昨年2020年春頃は、人々は食料や日用品の買い占めに走り、マスクがない、布やゴム紐さえない騒乱の中にありました。

私にとっては日本の社会が混乱で窮乏する初めての経験でした。


昨年、Episode 7 の執筆を一旦止めて外伝の漫画制作にとりかかったのは、このヒステリー状態の中でEpisode 7 の続きを描くことが空恐ろしく感じられたからというのが理由のひとつでもあります。

(元々読み切りの本を作りたかったのが大きいのですが)


本作は、ワシントン・ウイルスという脅威のウイルスがひとつの村を蹂躙するシーンから始まります。

蹂躙された村の中でワシントン・ウイルスに感染せず生き残った幼女ハトシェプストを発見し、彼女がなに者なのかという疑問から物語を展開してゆく構成を採っています。

そのワシントン・ウイルスの誕生の経緯を追うEpisode 7 の執筆のタイミングと、今のパンデミックが重なったのも、たまたま時計の針が定刻を指しただけにすぎません。

何せ未知なるウイルスなんて、SFでは使い尽くされて擦り切れたようなネタ。

そして本作は17年も前から粛々と描いているだけ。

それでも予定しているストーリーの進行の内容が、世間に跋扈する噂とリンクするような点も多かったため、しばらく寝かせて別のテーマの作品制作に移行したほうがいいだろうと判断しました。

結果、それでよかったと思います。

 

読み切り外伝という今までと全く異なる毛色の制作をしつつ、私生活で引越しに忙しくしていたりして、パンデミックの経過を距離を置いて見ることができました。

おかげで今のEpisode 7-2 もリアリティを注入して描けるようになったと思います。

昨年はじめまでの予定より、随分尺が伸びて描くのに時間がかかってしまっていますが…。

 

新型コロナウイルスによるパンデミックが、世界に何をもたらしたのか簡潔な総評を出すまでにはもっと時間がかかることでしょう。

しかし今現在の段階でひとつ確実に言えるのは、あらゆる面で分断が生じ始めているということです。


物事の議論をはかるときには必ず賛成派と反対派の集合と対立が起こるもので、
日本国内だけにまずは目を向けても、自粛の賛成・反対、ワクチン接種の賛成・反対、つい最近までオリンピック開催の賛成・反対、と事あるごとに両者の意見が時に罵詈雑言を伴って飛び交っています。


今のところ言葉による応戦だけで済んでいるのが、日本人のおとなしい気質と、ギリギリまだ持ちこたえている社会の堅牢さのおかげと思っているのですが、
海外ともなればそれが暴動だの略奪だの、フィジカルな暴力に発展してしてしまいがちです。

至るところで怒り散らして暴れている人々の報道を見るたびに、諸外国のパンデミックによるダメージの深刻さがうかがえ、
また国内に流入する人の流れの事情も日本と大きく異なるので、いよいよ人間と人間の分断が生まれてきていると感じざるを得ません。


今怒っているのは、生活苦にあえいでいる人々です。

またパンデミックがよその国から持ち込まれたものだと、人の流入を遮断し、自分たちの国を守りたい人々です。


そういう人々と、利害関係が対立する者たちとの間で、実に様々な面から分断が生じはじめています。


その亀裂の大元を探ると、見えてくるのはパンデミックよりもグローバル化の負の側面なのだと考えています。

 


今回のパンデミックはグローバル化がもたらした負の一面がせり上がってきたものなのでしょう。

グローバル化は国境を易々と越える人の往来を可能にしましたが、一方でその素地がなければここまでパンデミックは広がりませんでした。

グローバル化は貧富の格差を押し広げるだけだという批判はかつてからありましたが、まさにその通りの結論を迎えつつあります。

こと日本に関して言えば、安い人件費の諸外国とコスト競争せざるを得ず、労働者の給与が上がるどころか据え置き、あるいは下降していると叫ばれて久しい。

ましてそのコスト競争相手が、人権を無視して成り立つような低価格を売りにしている国だともう勝ち目はありません。


こんな泥沼の価格競争と消耗戦の労働から脱却するためには、理系分野の研究と特許取得の方面に国を舵取りしてゆくしかない。

Episode 5-3 のPart 2で私がマルセルに言わせた言葉は、割と真剣に私が考えていることそのままです。

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(Episode 5-3 Part 2 29ページより)

 

グローバル化がもたらした貧富の格差が、現在のパンデミックにおいて貧しい者と富める者の分断を生み、
人の往来の簡便化が逆に排他的なナショナリズムに発展しつつあります。


昨今、人種差別廃絶の論説が多く飛び交っていますが、その論説の裏ではそれ以上の数の差別が噴出しているからなのだと想像に易い。

私もかつてのイギリス留学生活や海外を旅する中で、人種差別で嫌な思いをしなかったかというと、100パーセントなかったとは言えません。

(それでも屈辱的で不愉快な思いをほとんどせずに済んだのは、私が単に鈍感なのか、無害な日本人の若い娘だったからでしょう)


私が留学時代を過ごした寛容で明るい空気のあった2000年代前半でさえ完全に差別はなかったとは言い切れない中で、
今は生死に関わるレベルの、おぞましい排他意識が怒りを食いながら噴出しているのだと感じています。


それは何より、パンデミックがよそ者によってもたらされた害悪そのものだからでしょう。


怒りを糧にするナショナリズムが、更に膨張すると戦争に発展する。

これはかつてのあった世界大戦の根本的な構造そのままです。

早くパンデミックが収束してほしい。このまま人々が疲弊し続けると、待っているのは暴力と暗い未来である。そういう暗澹とした気持ちに潰れそうになります。

 

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そうした人間と人間の分断の象徴として、漫画の中で壁の建造の絵を描こうと思ったのは、よいアイディアだったと思います。

Episode 3 あたりに登場する難民保護地区には既に周囲を壁で囲われて、人員の入出を徹底的に管理され、警察官のような人々が警備に配属されていました。

パンデミックを経験しなければ、壁の建造あたりの描写はサラッと言葉だけで流していたかもしれません。

分断の象徴という意識もありませんでした。


時勢を経験しながら漫画に反映させられることに喜びを感じると言えば奇妙なことかもしれませんが、
そこに創作の意義を見出した気持ちでもあります。


これまで私は自分の漫画は所詮作り話、荒唐無稽な絵空事という卑下する意識が多少ありました。

はぁ~ もう役に立たない絵空事のためになんでこんな毎日毎日苦労して描いているんだろう、
とふと冷静に振り返ったとき、
かけた労力とその見返りのあまりのつり合いのなさにバカバカしくなって空しくなることがあります。

漫画を描くために犠牲にしたもの、取り返しのつかない時間の重さに、自分の人生の選択は果たしてこれで良かったのかと苦しくて沈没してしまいそうなこともままあります。


自分が作っているものの意義に自分で懐疑的であったからだと思います。


しかし時勢を反映させながら創作するという行為は、自分がこの時代に生きた記録であり、無為に過ごすよりよほど能動的に生きられている気がしました。

きっと自分が年老いたときにあの時描いて良かったと思える日が来るのでしょう。

また、描いた漫画をネット上に公開するということは、大河に原稿を放流するようなもので、私が死んだ後でも誰かが拾ってくれるかもしれない。

(自分のサイトはサーバーの契約期間が過ぎたら消滅しますが、少なくとも投稿サイトに載せているものは、突然死してもそのままだからねぇ)

そう考えると、このパンデミックの時代の記憶を創作物として残すことの意義を前向きに考えることができるのです。

事実を羅列したニュース記事ではなく、作家が媒介した時代の記憶として創作物がある。

媒介する作家には一人一人に個性があり歴史があり、異なる境遇の持ち主で、結果ひとつとして同じ作品はない。

それらは後世から振り返ったときに、多角的に時代を捉える助けになるでしょう。


なぜ人はものを作りたがるのか、書き、描き残したがるのか、人間の創造意欲の根源とは割と謎だなと思うのですが、
ひとつに無意識に他者・次世代への記憶の継承を欲して働いているのかもしれません。

また我々には別の誰かが残したものを知りたいという好奇心も持ち合わせています。

他人が作った絵空事の小説や漫画でも読みたいという好奇心がよく考えたら謎なわけで、
詰まるところ、誰かに伝えたいという記憶の継承欲と、それを知りたいという好奇心がループしているのだろうなと思います。

そう考えると、創作すること、それを公開することへの意義も迷わずに済みそうです。

 

この時代の行く末がどうなるのか、見続けながら漫画に反映させていきたい。

そのためにしっかり生きて真面目に粛々と原稿を描き続けよう、そういう決心も固くなりました。

私も年々体力が落ちてきて、毎日腰が痛い。原稿描くのもしんどい。

それでも頑張っていこうと思います。

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